備前 岡山刀剣探訪の旅

(平成1611月)

 

 

1119日から21日まで、岡山を中心に刀剣探訪の旅にいってきました。林原美術館の刀剣展に行きたかったのだが、それだけでは物足りないので、どうしようかと思っていたら、日南町美術館(鳥取県日南町)というところで現代刀の久保善博刀匠を中心とした展覧会をやっていて20日に久保刀匠の鍛錬場見学という催しがあるということで、これに参加することができたらこの旅を決行しようと考えた。

さっそく日南町美術館に問い合わせたら、見学会は地元の人優先で、空きがあったら1111日から受け付けるということだった。え〜と思ったが、まあ参加費無料なのでしかたない、11日に電話するとまだ2人空きがあるというのでさっそく申し込んだ。これで19日に林原、20日に見学会というスケジュールがまず決まり、20日に帰ることはまず無理なので、21日には備中松山城長船にいくということにした。そして19日であるが林原だけでは物足りないので、倉敷刀美と、この際、かねてより興味のあった宇甘鍛冶の故地(御津町)にいってみようと思いついた。

宇甘鍛冶とは、鎌倉末期から一文字や長船派とは出自を異にする雲生、雲次、雲重などの刀鍛冶の総称である。山城伝風のしなやかな鳥居反りに直刃調の優雅でおだやなか刃文を焼いた、ひなびた作風が多く、逆にここが備前伝風でもあるのだが、乱れ映りが地に強く鮮明に出ているものもあり、私好みの鍛冶達である。山奥の方でひっそりと鍛刀し、京の都にその名声がきこえたのをねたまれて、雲生(?)は長船一派にうち殺された、という伝承もある。刀剣美術の330号〜340号(昭和5960年)あたりで岡山在住の刀剣研究家 中津勝己氏が実踏をふまえて「備前国宇甘鍛冶の研究」として連載されている。ここに、昭和4年にも刀剣研究家 内田疎天氏が吉備高原を徒歩で横断し、雲生屋敷跡を訪ねている、ということなども書かれていて、ぜひ一度いってみたいと思っていた。当初、航空機を利用したフリーのパック旅行(2泊3日ホテル代込みで4万以下とリーズナブル)でと考えていたが、それでも時間的に厳しいので往きは思い切って夜行バスいくことに。

でもって18日の夜、新宿を出発し翌朝6時に津山着、あたりはまだ真っ暗だったが、津山線で金川駅に着いた頃にはもうすっかり明けていた。さて、駅前でバスの時刻表を見るとなんと1日、3本ぐらいしか出てないではありませんか。予想では1時間に1本ぐらいの計算だったが甘かった。ここで覚悟をきめて歩くのだ、と疎天先生にならって徒歩でいくことに。

バス停で5つだが距離は長い、宇甘川の両側と奥とに山々で囲まれていて、川に沿って幹線道路らしくトラックなどがビュンビュン行き交う道をとただひたすら歩いてゆくと、はるか前方の山々に霞がかったように朝もやがなびいている、そこが目指す雲生屋敷の地、まさに雲類の故地にふさわしい。歩くこと約50分、箕地という道が二股に分かれたところに雲生屋敷跡の案内板があった。

 

 

右側の狭い方の道を歩いていくとさらに道が二股に分かれていて、宇甘川の支流が細々と流れていた。この支流に沿っていったところが雲生屋敷跡らしいが、もはや道もなく川の右側は畑で、左側は木々が茂った丘のようなところである。あたりはうっすらともやがかかる幻想的なたたずまいで、どうやら丘の方に屋敷跡があり、中津先生の記述では記念に「雲生屋敷跡」の立ち杭を立てたということであるが、それも生い茂った雑草と木々でわからない。そこで、しばしあたりを散策の後、車中で飲み残した純米酒を雲生らが焼き入れ用の水に使った思われる小川に流す。屋敷跡近くには井戸跡もあり、近辺には金糞もみられるということだったが、雨上がりの明け方で足元も悪く、思うように探索することができなかった。畑の方は私有地なので、そうそう長くいることもできなかった。

この宇甘郷の道は、現在も幹線道路が通っていることからも主要な古代からの要路だったのであるが、往復約1時半、登校中の子供以外、ひとりも出会わなかった。このように独りでいく旅は、生来のひねくれからか、人のいかないところにいくのが好きな私である。帰途中にあった町の郷土資料館に休憩をかねて寄ったが、雲類についてはパンフに町の歴史の一項目として載っていたものの、刀の展示はなかった。

 

この地は鎌倉末期まで持明院統の皇室関係の荘園であり、その領主または荘官に勧められて、山城国から移住して鍛刀したという説がある。また帰ってから刀剣美術誌の「備前国宇甘鍛冶の研究 探訪編」を読み返してみたら、丘側から屋敷跡にいく道もあるらしい。ちゃんと確認しておかなかったのはうかつだった。

 

午前11時過ぎに岡山駅に到着、お腹もすいたので、林原美術館の近くのラーメン屋、「元祖岡山とりそば太田」に入る。鶏ガラを使った醤油味のスープに鳥のチャーシューと細かくきったキャベツに、ごがしゴマとネギが風味を添えている。スープと麺のからみもまずまず、結局、今風創作ラーメンである。まあ水準はいっているように思う。

で、林原美術館へ。「刀剣の美と心」、古備前から末備前まで館蔵品による展示である。すべてが備前物というわかりやすさで、国宝、重文、重要美術品がずらりと並ぶ中、応永備前の盛光、康光をみているところで、麗の誌上鑑定をまだ出していなかったことに気づいた。一瞬、もう今回はだめかと思ったが、今日は平日だし手持ちの地図を見ると郵便局が近くにある。あとは刀剣柴田さんの住所さえわかればまだ間に合う(銀座まではわかる、あとは番地だけ)、で気を取り直して、鑑賞にむかうが、どうも落ち着かない。古備前の正恒、これはごっつう気に入りました。左近将監銘のある長光が2振、う〜ん、すごいなぁ、うち1振は国宝の長光、高低のある焼き刃に覇気ある代表作。光忠、長光、景秀、真長、真守と時代が下がるに従って微妙な違い、特徴があるようだ(その違いをみてとるのは難しいが)。真守造の銘がある重花調の大乱れ刃に蛙子丁字も入った真守が気に入った

ミュージアム・ショップに柴田さんの住所が載っている本があったので、急いで写し、岡山中央郵便局でハガキを買い、近くにあったアフタヌーン・ティーでしばし黙考、最終確認のしようもないので、当たりをつけていた刀工をやむなく記入し、投函。しかし、ここまであせりまくりで、どうしていつもドタバタするのだろう。(写真は雲生屋敷跡付近)

 

 

どうにかハガキを投函の後、時間もたっぷりとあるので、倉敷の刀剣美術館にいく。1階には重刀ばかり20振り近くあり、なかなか壮観だったが、ここは刀屋さんでもあるので、鑑賞もそこそこに切り上げる。岡山駅に戻り、駅近くの石臼挽きのそば粉をつかって手打ちのそばをつくっているというそば屋(甚五呂)で早めの夕食をとり、2日間の宿泊先にした備中高梁国際ホテルにむかう。岡山駅近くのホテルよりも備中高梁のほうが日南町にも近いし、備中松山城にもすぐいける。結果的に正解だったが、なにより飛騨高山とか、昔ながらのたたずまいを残した小都市が好きなのである。1時間ぐらいで街中を一回りすることができるのがいい。ホテルに着いて一休みしてから、酒を買いにでたのであったが、近くにあるセブンイレブンにはおいてなかったので、暮れきった街中(脇道に入ると真っ暗)をあちこち歩き回ってしまった。なんでもすぐ手に入る生活に慣れてしまっているので、好きではあるが決して住みたいとは思わない(笑)。

翌朝、小1時間、街を歩いてから、日南町へとむかう。伯備線「生山(しょうやま)」駅でおり、タクシーで町役場近くの総合文化センター内にある日南町美術館へ。生山とは、いかにも昔、銀山とか銅山があったような名称で山に囲まれた駅周辺をながめるとたしかにそんな雰囲気がある。「今甦る日南町の和鐵〜印賀鋼の故郷から〜」印賀鋼は知らなかったが、文化年間(1800年頃)に印賀鋼という名称でそれまでも特産物だった鋼を売り出したということである。明治、大正、昭和の初め頃で印賀鋼の供給は終わったという。展示会では、印賀鋼を使って制作した久保善博刀匠や、宮入一門(行平、将平、国平、恒平など)の刀があった。現代刀以外では「武州以伯州印賀鋼鐵造之」という珍しい添え銘のある浜部寿格の刀があった。といっても作られた刀からはその鐵の特質はまったくわからなかった。

美術館で説明を受けて、午後1時、バスで久保刀匠の鍛錬場へとむかう。途中、左手にヤマタノオロチ伝説で有名な船通山をみる。ここはヤマタノオロチが死にのたうちまわる時に産み落とされたという「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」の、つまり日本刀発祥伝説の地でもあるのだ(日刀保たたらで有名な島根県横田町は船通山を隔てた隣町である)。バスで約50分、鳥取県を越えて広島県西城町にある鍛錬場についた。さっそく、折り返し鍛錬を見学、久保さんから刀の鍛え方などについての説明をきく。久保さんは千葉大の大学院(園芸学部)をでた異色の刀工で、これまで新作刀展(コンクール)で寒山賞や優秀賞を何度もとった、気鋭の若手刀匠で、3、4年ほど前、中国テレビで放映された「炎の男達 出雲たたらものがたり」(こちらではフジテレビで深夜に放送)に出演されており、以後、刀博の新作刀展や大刀剣市などでも、注目していきた。この番組はビデオに撮り、繰り返し見ている。日本全国から砂鉄を集め、自家製鋼もし、古鐵も集めていわゆる卸し鉄をして、日刀保の玉鋼と合わせながら、また、それぞれの鉄だけでも作刀しているとのことである。古刀を再現しようという宿命にそうとどうしてもそうなってしまうのだろう、現代の刀工たちはいわゆる鉄の研究家、理論家が多い。限られた時間で、しかも参加者は刀剣についての予備知識のない方がほどんどなので、あまり専門的な質問はできなかったが、かんじんの印賀鋼で打ってみての感触、最近の長光写しから、最終的にはやはり古備前をねらっているのか、など後から考えてみたらききたいことがたくさんあった。ふいごの操作をさせてもらったが、説明されたとおり、すごく軽かった。これなら一日中操作しても疲れないね。

 

 

 

ひとり姫路から来た居合いをやっていて、現代刀工に作刀の話を聴いてまわっているという現代刀ファンの方と、帰りのバス中でいろいろ話すことができた。5時40分頃に駅に戻って時刻表を見ると、な、なんと7時25分まで電車がない、しかたないので駅隣の軽食堂でエビカレーを注文する。小さめのエビフライがなんと5尾ものっていた、少し油臭いカレーだったがこんなのははじめてだ。

 

翌21日は小気味よい快晴、晴れ男の面目躍如、私がアクションを起こすときはたいがい晴れるのである(笑)。日本三大山城のひとつで天守の標高は最高に位置する、あこがれのお城であった備中松山城まで、途中で巡回バスを利用したが、基本的に駅から歩いて登城する。この間ざっと40分、途中、紅葉が素晴らしかったが昇りが続きさすがに大手門近くで息切れをした。石垣をはじめ、当時の遺構が多く残っており、見る者を飽きさせない。絶景を誇るこの城郭とまばゆいばかりの青空に、ただただ感動した。これまで数十の城を訪れたがここが最高、来てよかったと実感した。毛利氏、浮田氏に挟まれて捲きおこされた「備中兵乱」として有名な、戦国時代の城主 三村氏の物語もこうして登城してみるとなにやら実感がわいてくる。時間の都合でさらに奥にある中世山城の遺構が残る大松山城にはいけなかったが、いつかもう一度行きたい、そのときにはきっといってみようと思う。ただ、ここで忘れてはならないのが、この城を造った人たちのことである。奈良の大仏や比叡山の延暦寺、安土城、大阪城など、巨大な建造物を造るには莫大な資金と人力が必要である。奴隷のように使役されて命を全うした人たちがたくさんいたことだろう。そうしたことを考えない歴史はほんとうの歴史ではない、と常々思ってきた。偉容を誇る建造物を実際に造った人たちの歴史がまったくといっていいほどないのだ。

 

 

下山して、駅近くの郷土料理屋で田舎汁定食を食し、長船へとむかう。備中高梁から長船まで直通で行けるのがうれしい。リニューアルなった長船刀剣博物館はよくも悪くも観光地化していた。鍛錬、研ぎ、拵えの造作、塗り、と刀が作られていく行程を見学することができる。それ自体は悪い試みではないが、ガラス越しにみていると、なにやら微妙な気分にさせられた。蔵品展と赤羽刀展をやっていたが、心動かされる刀はそれほどなかった。

ということで、近くの兼光屋敷跡と刀剣の森がある靱負神社に立ち寄った。誰もいない(当たり前か)刀剣の森はおそらく何百年の昔からそのままの鎮守の森なので、うっすらとしてあたりはほの暗く、神秘的なふんいきをたたえていた。ここで一休みして、これでこの旅も終わりかと香登駅にむかう途中に「短刀三人展」「備前長船日本刀伝習所」の立て看板が。誘われるように、看板の示す方に進むと、備前長船日本刀伝習所があった。外に砂鉄らしきものが何種類かおいてあり、今その選定をしているところであるようだった。足を止めて見ていると、刀匠らしき方が、説明しましょうかと、作業所に誘ってくれた。いろいろお話をうかがったが、砂鉄から自家製鋼しており、日刀保の玉鋼は今は使っていないとのこと。刀匠祐定を筆頭に、数人の作刀資格のある刀匠が所属しているらしい。お話を伺ったのは、國典刀匠だった。この備前長船日本刀伝習所、玉鋼の販売や刀・小刀などの注文打ちでヤフーのオークションに常時、出していることは前から知っていたが、ここにその本拠があったとは。約30分、矢継ぎ早に質問をして、記念に日刀保たたらの玉鋼をわけてもらい、駅に向かった。

最後は駆け足気味になったがぎりぎりで赤穂線に乗車できず、仕方なく香登駅のバス停から岡山行きのバスに乗車した。バスは夕映えの吉井川に沿って走り、旅の終わりを感じさせてくれる雰囲気があり、こちらが正解だったかも。岡山駅についてから、もうひとつアクシデントがあったが、どうにか東京に帰って来れた。

 

 

振り返ればこの3日間、トータルでじんわりと30kmは歩いただろう、こんなに歩いたのは初めてといっていい。日頃、怠惰な生活を送っているのにもかかわらず、これも刀剣に惹かれ、追いかけながらの、夢中の心境だったからさほど苦にならなかったのだろう。ここまでご精読ありがとうございました。岡山は2度目でしたが、これに懲りずに機会があればまた行きたいですね。

 

 

るろう剣士

 

 

 

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