第五章・新々刀〜現代刀
一、新々刀の定義
新刀という言葉が一般的に使われるようになったのが安永七年(1777年)の「新刀弁疑」刊行以降であり比較的新しいことは既に述べた。これに続く新々刀という言葉だが、実はこれはもっと新しく、明治時代に入ってから言われるようになった。とは言っても、確たる定義はなく、漠然と元禄以降衰退していた鍛刀界がにわかに活気づいた18世紀の終わりないし19世紀の初頭以降、明治に入り廃刀令が出されるまでに造られた刀をこう呼んでいる。安永年間(1772年〜)を始まりとする説、天明年間(1781年〜)を始まりとする説、寛政(1789年〜)説、文化(1804年)説といろいろ言われているが、ここでは便宜上砥ぎ師の永山光幹先生の書籍にある天明説を採ることとする。この時代は相次ぐ天災・飢饉、貨幣経済の浸透により、米を俸禄としていた武士階級の困窮(物価の上昇についていけない)等、太平から打って変わって不透明な時代となった。幕藩体制の行き詰まりが顕著となった時代である。
突然の刀剣需要:元禄以降下降線をたどった鍛刀界(一時的に享保時代に復興したが)、であったが、天明・寛政時代を境に需要が高まりさかんに作刀されるようになった。これには次の理由があると個人的には考えている。まず、松平定信による寛政の改革。松平定信は徳川吉宗公を理想としたので、すべてにおいて享保の改革を手本とし復古政策をとった。貨幣経済の現状を顧みず米本位制に戻そうとしたため、政策的には失敗したが、復古思想は鍛刀界にも影響を及ぼし、にわかに鎌倉・南北朝期の刀剣になかんずく戻ろうとする気風が生まれた。加えて、寛政四年(1792年)、ロシアのラックスマンが日本との通商を求めて根室に来訪したことも見逃せない。鎖国を続けていた日本にとってにわかに外国との接触がおこり、国防の意識が生まれ危機感を煽った。これが拍車をかけ、刀剣需要がましたのではなかろうか。
水心子正秀の登場:本国出羽、初銘を鈴木三郎藤原宅英、のち英国と改める。安永三年(1774年)に江戸に出府、秋元家抱え工となったのを機に川部儀八郎正秀と称し水心子と号した。文政八年(1825年)七十六歳で没。初期は鎌田魚妙の新刀弁疑に触発され大坂新刀の助広・真改を写した(鎌田魚妙は関西出身のため、大坂新刀をべた誉めしていた)。壮年期は相州伝を写していたが、刀剣実用論から焼の深いものは折れやすいという欠点を改めるべく、鎌倉時代の刀剣にもどるべしという復古論を掲げた。以後晩年に至るまで主に備前伝を焼く。また、正秀は非常に理論に優れ門弟の育成もうまく、優れた弟子を幾多も輩出させた。彼の影響は大きく、新々刀の祖とまでいわれる。正秀の死後もその弟子達により復古思想は受け継がれ幕末に至っているといっても過言ではない。
二、新々刀の作風(前期)
水心子正秀は、大坂新刀の影響を強く受けており、文化頃より復古思想に根ざした備前伝風の作柄となる。従って、当時の刀工の作柄も文化・文政時代までは大坂新刀風のものが主流で、復古思想が完全に定着する天保頃までを前期、それ以降を後期と便宜的に分けてみたい。
作風:大坂新刀、特に越前守助広や井上真改が最上作と絶賛されていたのを受け(→新刀弁疑)水心子をはじめとして大坂新刀写しが多い。頃合の長さに派手な涛乱刃を焼き、華麗な作柄となる。鍛え目は地鉄が詰み、無地風となる(このあたりが助広などの新刀刀工と違うところで、後者は良く詰みながらも鍛え目が明瞭で美しい)。また、相対的に焼が深くなる傾向が強い。体配・形状的には写し物という意味で特に変わったものはなく、時代特有のものはない。ただし、薩摩では伝統の技法を守り、この時代でも変革せざる刀工群を輩出している。
この時代の刀工:水心子正秀、手柄山正繁、南海太郎朝尊、水心子秀世、伯耆守正幸、奥元平等。
古今鍛冶備考:享保の頃から刀剣研究が熱を帯び、鎌田砂魚を皮切りに研究本が続々と出版された。寛政八年(1797年)柘植平助が著した「懐宝剣尺」はその中でも一つの目玉を世間に提供した。この本の中で五代山田浅右衛門吉睦の長年の試し斬りと、山田家に伝わる伝書、さらに戦国時代より伝わる風聞などから古今東西の刀工から特に斬れ味の良いものを四段階に分けて抽出した。これが業物位列と呼ばれるものとなり、最上大業物・大業物・良業物・業物計180余工が選ばれている。これは大いに世間の評判を呼び、また刀剣熱を促進する働きをしたといってよい。この業物位列はその後追加・補正を加えて、最終的に天保元年(1830年)山田浅右衛門吉睦名で出版された「古今鍛冶備考」全七冊において1,111工を数えるまでになった。その中でも最上大業物14工(当初は13工だったが、二代兼定=和泉守兼定を大業物より格上げして14となった)は、幕末の動乱期多くの武士がこぞって求めたという(実際は需要と供給があわず、多くは贋作が出回った)。現在に至ってもこの最上大業物は刀剣愛好家垂涎の的である。ちなみに、小生所持するところの法城寺正弘は業物である(愛刀自慢)。最上大業物および大業物のうち、著名なものは下記表を参照いただきたい。

真説・山田浅右衛門(蛇足の九):山田浅右衛門については上記のほか第四章でも少し触れたが、貞武を初代として幕末・明治に至るまで八代に渡り公儀御刀御様御用を務めた家系である。実際には九代もいたがその頃にはこの御用は消滅しているので省略したい。本来「試し斬り」が本業であるが、罪人の首を落とす役も引き受けていたため「首斬り浅右衛門」と称されている。首斬りは町奉行所の同心の役目なのだが誰しも自分で人の命を絶つことを嫌がりやり手に窮することが多かった。そこで、どうせ首を刎ねたあとの屍胴を用いて刀の試しを行うのだから、ついでに首も斬ってもらおうということで浅右衛門の出番となったわけである。実は首斬り役を仰せつかった同心は刀の研ぎ代として二分ほど支給されているのだがそれは自分の懐にしまい、浅右衛門からは「お役目を譲ってやる」という名目で謝礼を強要していた。罪人の首を斬ることについては、浅右衛門は自腹を切ってやっていたのである。
さて、本業の様料(ためしりょう)であるが、将軍家の場合は一刀につき大判一枚(十両)と決まっていた。年に三振り、多くても五振り程度であった。これでは同心に賂を渡して便宜を図ってもらう割に世間の悪評を被ってるわけで、とても釣り合いのとれる御用とも思えない。実際は将軍家以外の、御三家や諸侯、直参旗本または裕福な商人たちからの試し依頼が引きも切らなかったようで、こちらの謝礼の方が公儀御刀御様料を遥かに上回っていた。また、実地に多くの刀剣を扱い見ることで鑑定眼も備わり、本阿弥家に匹敵するほどの造詣があったので、歴代の浅右衛門に鑑定を依頼する者も多くこちらの収入も馬鹿にはならなかった。さらに、当時は肺病の妙薬として人間の生き胆を干したものを珍重していたので、首斬り家業の役得でこれを「山田丸」という秘伝の薬として売り出したので大いに実収をあげた。結果山田家の消費生活は数万石の大名に匹敵するとまで言われていた。こうなると、はじまるのがやっかみである。首斬りという家業、そして大儲けしていると邪推した者どもがいろんな噂をたてたようだ。浅右衛門が首斬りの役目に行くとき、必ずその日に処刑する罪人の数だけ仏間に火をともした蝋燭をたてていく。刑場で浅右衛門が罪人の首を落とすと、同時刻に仏間の蝋燭の炎がふっと消える・・・。また、首斬りした当日は、罪人の霊が浅右衛門に憑りつき離れないので翌朝まで芸姑を上げて大騒ぎし、霊を慰めた・・・。それでも成仏しない霊が人魂となって浅右衛門宅を夜毎徘徊している・・・。はては、生き胆で商売していることを落首にしてことさら穢れたものであるかのように吹聴する・・・。これらは「講談師見てきたような嘘をいい」の類の作り話に過ぎない。蝋燭云々など、火事が多く、それゆえ火の始末にことさら厳しい江戸という時代をまったく無視したとんだお笑い種である。仏間といえども、線香ならともかく、誰もいないまま火をともして蝋燭を置きっぱなしにするなど考えられない。万が一出火した場合火元責任はまぬがれない(極刑である)。人魂云々も根も葉もないよくある怪談話そのままである。山田丸にしても、町方同心がこれをたかり、彼らのいい収入源となっていたのも事実である。山田家のみがこれで潤っていたわけではない。
実際の浅右衛門はいたって信仰心あつく、自らが首を刎ねた罪人の霊を弔うために寺社への献金を惜しまなかった。そればかりか、私財を投げ打って寺院の建立をも行っていた。七代浅右衛門吉利(明治十七年没)などは、彼一代で二十一もの寺を建立したほどである。現在東京にある寺で江戸時代中期以降に建立されたものは実は山田浅右衛門によるものもかなり多いのだが、こうしたことは全く語られることなく、現在も知られていない。残念なことである。
ところで、山田浅右衛門を語るときに「歴代で誰が一番腕がたつか?」という話に行き着くことがある。もともと山田家には家督相続について「門弟中最も優れた技量の者に跡目を継がせる」という厳しい不文律がある。実子であっても例外ではない。従って歴代それぞれが浅右衛門の名に恥じぬ手練れであったことは何ら疑問の余地はない。その中でも誰がとなると、いろいろと意見の分かれるところである。七代吉利(この人も養子)と八代吉豊の弟吉亮(吉豊が壮年期に病身となったので彼の代行をしたという)が数百以上の首を刎ねたので、この二人が最も腕がたつという説がある。しかし、この二人の時代は幕末にかけ特に罪人が急増したこともあり、首の数だけで決めるのは早計ではなかろうか。山田家に伝わる試し斬りの手法に「釣り胴(吊り胴)」というものがある。人体を両手首で縛って文字通り宙吊りとし、三の胴(第四章の試し斬りの部位図参照)を水平に薙ぐ斬り方である。屍胴とはいえ土壇に固定した場合と違い安定性に欠けるので、両断するのはかなり難易度の高い斬り方である。これに成功したのは歴代でも初代貞武と五代吉睦(この人も養子)のみ。この両名が、卓越した技量をもつ八人の浅右衛門の中でも頭ひとつ抜きんでいた、と見て差し支えなかろう。

グロですみません、夢みないように。
以下追加補足(補足年月日、2002.11.09)
岩波文庫の「明治百話」という本に、当時の人達の談話が載っています。第一話はなんと山田朝右衛門吉亮(よしふさ)です。この人は七代吉利の実子で八代をついだ吉豊の弟であり兄が「浅右衛門」を名乗ったのに対して、「朝右衛門」を名乗っています。
幕末においては通常の罪人の他に幕府に対する不満分子・危険分子などの処罰、明治維新後は新政府に対する不満分子の処罰に明治十四年まで斬首が行われて、その数は激動の時代を反映して物凄い数に及んだようです。したがい、吉豊だけでは手が足りないせいか弟が代行することも多く、そのため吉亮に代行とはいえ山田家を代表する名目として通常は養子に与える「朝右衛門」を特別に名乗らせたと思われます(山田家には門弟中もっとも腕の良い者に跡目をつがせるという不文律があり、実子であっても例外ではなかったのです。その場合に跡目をついだ者が宗家に遠慮したか「朝」の字を用いて名乗ったようです)。八代浅右衛門に対し、八世朝右衛門と本人が言っているのはそのせいでしょう。(注:「浅」「朝」の字についてははっきりとした確証はまだ私自身得ていないが、いろんな書籍での説をとりあえず採用したものです)
この談話が実にリアルで興味深いものです。面白いことにどこかべらんめえ調で武士というより江戸っ子調の語り口がくだけた感じで親近感を覚えて心地よい(?)。原文を引用しながら私の見解なども加えてご紹介したいと思います。
「手前が山田朝右衛門の八世をつぎました吉亮でございます。山田家は家業が家業でしたから世間の誤解が多い、しかし決して好んで刀を握ったのではありません。
お尋ねですから逐一お話いたしましょう。手前は歳十二の時から父の吉利と刑場に参り、以来十七年間刑の執行を致して居りました。手前の代でこの家業が断絶したんですが、これはいかにも有難い。何しろ誤解が多いので、いつか本当のことをお話しして置きたいと思っていたところゆえちょうど幸いでした。
十七歳の時、名士では雲井竜雄(くもいたつお)を斬りました。夜嵐お絹こと原田きぬを斬ったのが翌十八歳、高橋おでん、島田一郎を斬ったのが手前二十六の血気盛り、兄弟の中では手前が一番多く斬らせられたわけです。」
やりたくて入った道ではないということが、この文面からもわかります。何の因果か刑の執行人となってしまった。それなのに世間はそうは見てくれない。そんな吉亮の心の内やいかに?誰しも好んで刀を握るのではない、剣とは相手に剣を抜かさずして勝を極意とする。刑の執行と剣の極意はまったく違う次元のものですが、「好んで刀を・・・」のくだりには朝右衛門ならではの境地があり、なにか心をうつものがあると思うのは私だけでしょうか?
「元来初代山田朝右衛門貞武(これは談話を文章にしたので「朝」の字を書き手があてた誤記と思われます、実際の初代には「浅」の字をあてています)は武道の大熱心家で、とりわけ据物試斬(すえものためしぎり)の名人でありました。徳川家御腰物奉行支配山野加右衛門尉永久(やまのかえもんのじょうながひさ)の教えを受け、徳川家の御佩刀御試御用役をつとめて、かの赤穂義士不破数右衛門正種、堀部安兵衛武庸なぞとは武道の親友だったそうです。ところがその頃、奉行所に『首斬同心』というものがありましたが、山田が死屍(むくろ)を試すなら、いっそ斬手もやってもらいたいというような話が出て、遂に兼務のようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬の始めなのです。」
赤穂義士の不破は浪人後江戸暮らし、堀部は江戸詰めであるので、据物斬りの大家山野加右衛門永久を介して初代貞武と親交があったとしてもおかしくは無いが、本当ならなぜこうした話しが伝わってないのだろうか?やはり首斬役とは一線を画する世間体があったのか、それとも赤穂義士の義挙をより美化するために後世の作家も敢えて無視して伝えたのであろうか?
しかし、本当に親交があったとすると一層面白いと思うのですが、これは現在ならではの感覚なのかも知れません。世間一般としては義士と首斬役が同じ釜の飯を食った仲では都合が悪かったのでしょう、幽霊が大騒ぎするような山田家に義士との親交は必要ないということかも知れませんネエ。
ところで、本当に幽霊が出たんでしょうか?
「手前共の平河町の屋敷へ幽霊が出ると昔から評判になっていますが、これは家業が家業なので一応は道理(もっとも)のようです。しかしながら惜しいことに、未だ一度もその幽霊を見た事がないのです。手前にしたところで、十二の歳から十五歳と上へ披露して斬始め、ざっと勘定しても三百人余りを斬っておりますから、それだけの怨霊に、一々とり憑かれていた日には、今日まで命がいくつあっても足りる訳がありません。有名な玉乃判事に斬付けて、斬罪に処せられた服部喜平治が、玉乃を始め私にまで、取殺してやるといって死にましたが、これも未だに現れて来ないところを見ると、どうやら出ないのじゃないかととも思われます。」
あっはっは、痛快痛快、傑作傑作!。しかし、まるで他人事のように淡々と述べているあたりの図太さ、やはり一角の人物と思わざるを得ないのではないでしょうか?とは言いながらも、人の命を絶つこと、人を斬ることはどこかにやりきれない忸怩たるものもがあったとみえます。
「また、昔から手前共では、幽霊が出るために夜通しで騒ぐという噂もありました。これはこうなんです、手前や弟子なぞでも人を斬って帰って来ますと、どういうものか顔がボーっと逆せて(のぼせて)、大変な疲れを覚えます。一ト口(ひとくち)に血に酔う、とでもいうのでしょうか。とにかく妙な気持ちです。そんな時には、父から徹夜(よどおし)の宴を許されるので、若い弟子達は底を抜いて騒いだものです。これを世間の人が曲解して朝右衛門は怨霊に悩まされて睡れないため、ああして夜通し騒いでいると伝えたものでしょう。」
こればかりは実際に人を斬ったことのあるものにしか解りえないものなのでしょう。武士が己の命をも賭して果し合いに挑み首尾よく敵を討ち果たすのと違って、縁も所縁もない者の首を一方的に刎ねなくてはならない。剣の腕が立つゆえの家業とはいえ、なかなか酷いものです。
吉亮は生涯で三百人の首を刎ねたと言ってますが、時と場合によりこんな過密スケジュールもこなしたようです。
「年を越すより年内に片付ける、という風があって大晦日なぞには総勢二、三十人ぐらいは斬ることもありました。同じ事件の仲間は同日同所で斬ります(やります)。岩倉大臣を喰違で狙撃した高知県貫属の時は、一度に九人斬をやってのけたものです。」
いつの時代でも師走は忙しいようですが、大晦日にまで刑を執行するとは斬る方も斬られる方もたまったもんじゃありません。斬られる方もせめて初日の出くらいは拝んでから死にたかったと思っても不思議ではありません。
しかし、三百人も斬ったとなると、すっぱり斬れることもあるが罪人が暴れて失敗したこともあったようです。また思いもよらぬ凄惨な斬首も数多くあったでしょう。その中で本人が「一世一代の斬首」と言っている例を最後にご紹介します。
「斬首で一番手古摺ったのは、大川端町の代言人で服部喜平治という男、これがどうして利かぬ気の奴で、この時にはさすがの自分も血の雨を全身に浴びました。
原因というのは、この喜平治が時の玉乃判事が片手落の裁判をしたというので烈火の如く憤り、同判事が通るところを、後から己れッといいざま斬りつけた。ホンの肩口をカスッただけなんですが、その当時のことで死罪の宣告を受けたんです。さて処刑の当日になりますと、乱暴狼藉手に負えぬ荒れかたで、『玉乃判事を殺さぬうちは服部喜平治は死なぬ、死刑の宣告を下した吉本判事も生かしてはおかぬぞッ』と大狂乱を始めました。さすがの縄取も持余す、手前も刀を下す事が出来ない。喜平治は自分の首を石橋の獅子のように振って、斬らせればこそ、検視の役人方も愕かれる騒ぎ、果ては手前にまで『斬ったが最後、化けて出て憑り殺す』というのです。仕方がないので、縄取に『放してしまえ』と命じました。縄取は怪訝な顔をしていましたが、手前のいうことなので『ようがすか、放しますぜ』と危ぶみながら喜平治を放した。手前もこうなっては覚悟がありますから、野放しのさせておいて、逃げ出すところを背後から峰打を一つ喰らわしたんです。すると斬られた(やられた)と思ったか、振返りざま飛付いて来ようとしたところをスパッと斬りました。美事斬りは斬ったが(やりはやったが)、抗ってくるところを斬ったので(やったので)死骸(むくろ)は手前の方へドッと倒れてくる。返り血は絹紬の紋付へサッとかかって、ぐしょ濡れです。どっちが斬ったのか斬られたのか解らぬくらいでした。こんな首斬りをやったのは実に一世一代のことでした。
イヤどうも忌なお話ばかりお聞かせして申訳がありません。この辺で御免を蒙りましょう。」
(岩波文庫「明治百話」上巻、首斬朝右衛門より抜粋。篠田鉱造著)
三、新々刀の作風(後期)
天保年間(1830年〜)以降になると、水心子正秀の復古刀思想が定着した。なかんずく鎌倉・南北朝時代の刀剣にもどるべし、ということで、備前伝・相州伝に範をとった刀が多く造られた。水心子一門は特に備前伝に傑作を残している。この時代は江戸時代における刀剣史上寛文時代以来の隆盛を迎え、特に天保期に名工が集中している。
作風:写し物がほとんどであるため、格別時代特有の体配のものは少ない。主に備前伝・相州伝の太刀を写したものが多い。南北朝の磨り上げ物に範をとったものは、慶長新刀に似る。すなわち反り浅く切先が大きく延びる。強いて言えばこれが幕末一番多い体配で時代特有と言えないこともない。また、勤王の志士の間で一時期無反りで二尺八寸前後の刀が流行したこともある。これを勤王刀などと称しているが、使い勝手悪く単なるこけおどしのようなものでしかなく、時代特有の体配にはなり得なかった。はっきり言って勤王の志士などといってもおおかたは泰平ボケして真剣の斬り合いなどやったことのない者がほとんどだったのである。剣に心得のある武士であればこのような刀を注文したり、帯刀しないと思うが。すぐ廃れたところをみると、実戦を経てはじめてこの勤王刀がいかに使えない代物であるか気づいたのであろう。
この時代の刀工:清麿、会津十一代兼定、大慶直胤、細川正義、加藤綱英、次郎太郎直勝、左行秀、長運斎綱俊、固山宗次、山浦真雄、斎藤清人、鈴木正雄、運寿是一、角元興、月山貞一、肥前忠吉(八代)、細田直光、尾崎助隆等。
近藤勇と虎徹(蛇足の十):新選組局長近藤勇の愛刀といえば「今宵の虎徹は血に飢えておる」などという講談の台詞で有名になったが、その入手説の多さ・真贋を巡る論争にことかかない。果たして実態はいかに?
まず、入手説。
@浪士隊結成に応じて京に旅立つ直前に、武州鍛冶の筆頭たる虎徹を求めて刀屋に探させたが見つからず、探しあぐねた刀屋が清麿の刀に次郎太郎直勝門の細田平次郎直光通称鍛冶平と呼ばれる偽銘の名人に虎徹の銘を切らせて売りつけたという話。
A京で鴻池の屋敷に押し込もうとした賊を巡回中の近藤勇が斬り捨て、その謝礼として鴻池の蔵刀にあった虎徹を貰ったという話。
B刀の目利きでもある齋藤一が、京の骨董屋の店先にあった無銘だが虎徹に間違いないということで掘り出した刀を近藤が譲り受けたと言う話。また、入手説とはちょっと違い、齋藤一のエピソードとも絡んでくるが、Cもともと無銘の虎徹であったとする話。
D虎徹の高弟である興正の銘刀であったとする話(興正には二代虎徹と銘切りした作が何振りか確認されている)。
とにかくこの調子できりがない。どれも今ひとつ信憑性に欠ける。まず、清麿の刀に偽銘であるが、清麿とて新々刀期の刀工とはいえ、四谷正宗とまでいわれた屈指の名工。偽銘を入れて虎徹で売るにはちと原価が高いと思う。贋作とは、できるだけ安く仕上げて高く売るもの。でなければ儲けも少なく危ない橋を渡る価値がない。鴻池説も、あれくらいの豪商なら所蔵していたとしてもおかしくはないが、新選組にはその後相当な金子を融通しているので、ここまで至れり尽くせリしただろうか?無銘の虎徹説ははっきり言ってお笑いだ。当時虎徹は大名級の指料、注文品が多く、無銘のものなどまずあり得ないし、その辺の骨董屋の店先に転がっているようなものではけっしてない。二代虎徹?これはありえないことではないが、明らかに見たという記録そのものがはっきりしないので、全面的に肯定できないのと、興正ではそもそも刀工としての評価が格段に違い、愛刀家はけっして興正を二代虎徹とは呼んでいない(ただし、興正の名誉のために言っておくが、彼も傑出した刀工であり新刀屈指の腕である)。
こうして一つ一つを検証するとなんか全部怪しい話になってしまう。そもそもどうしてこんなにも説があるのか?このあたりを私はこう考えている。近藤勇はとりあえず、真贋はわからないまでも「虎徹」と称する刀を所有していたことは間違いない、それも数振り。数振りあるからこそ入手説も含めて幾通りもあると考えた方が自然ではないか?近藤勇の虎徹を一振りだと決め付けるから論争になるのである。現在日野の土方家に伝わる同じく新撰組の副長土方歳三の遺品である会津十一代兼定二尺三寸余も、新撰組書簡にでてくる兼定二尺八寸とは刃長が異なり別物であることがわかる。これからも、武士たるもの戦いに臨む者は数振り刀を所持していたことがうかがいしれる。ただ一刀に命を託して、などというのは後世の作り話であろう。
で、本題に戻るが近藤勇の虎徹には正真物はあったのだろうか?これも私個人の考えだが、謎のままにしておいた方が夢があってよいのではないかと思う。真贋どうあれ、近藤勇はそれを虎徹と信じ、刀もそれに応えてくれたのではないだろうか。獅子奮迅の働きの中には近藤独自のひたむきさがあり、虎徹と信じきることで人間近藤と刀が一体となってあれだけの活躍ができたと思うのだがいかがなものでしょう。我らが調布の英雄近藤勇先生万歳!(なんじゃこりゃあ)
鍛冶平(蛇足の十一):上でちょこっと登場した通称鍛冶平、本名細田平次郎直光、実に面白い刀工である。ある意味、幕末新々刀を語るときには外せない人物かも知れない。この鍛冶平、刀工としてもきちんと修行を積んでいる。なかなかの腕前であったが、偽銘に手を染めたのがばれて、直勝門を破門されている。しかし、そんなことで懲りるような男ではない。偽銘の研究を重ね、この道では第一人者となったのである。しかも、自分の切った偽銘を押形に取り「鍛冶平真偽押形集」なる本まで出版したほどであるから、なんとも惚けたものである。ここまでくると人間不思議と好感を持ってしまうのは私だけか?残念ながら本人の銘の作を見たことがない。ぜひ、この先一度は本人の正真物を拝見してみたいものだ。なお、鍛冶平さん、明治の廃刀令以降も、他の刀工が転職を余儀なくされた中、ひたすら偽銘でのらりくらりと生き延びたとさ。あっぱれあっぱれ!
まとめ:ここで、室町時代以降の刀(打刀)の形状・体配を時代順に並べてまとめとしたい。元禄以降・新々刀については各時代の著名工の写し物が多いということで今までの体配を思い浮かべていただくとしたい。ただ、勤王刀と呼ばれるものだけは別として参考までに掲載した。

四、現代刀
明治九年(1876年)廃刀令が出され、多くの刀工が野鍛冶などに転職を余儀なくされた。刀工受難の時代である。これ以降を刀剣史では現代刀としている。満州事変や大戦により軍刀の需要が増したこともあったが、極一部の刀工を除けば著しいレベルの低下となり、平安末期より連綿と伝わった作刀技法の多くが失われてしまった。敗戦によるGHQの刀剣没収などが追い討ちをかけ、また、国内の名刀が海外に流失、いまだ返還されていないものもある。現在は数々の苦難にもめげず、地道に作刀を続ける現代刀工により(現在400名を数えると言う)、技術も復興しつつある。中にはまったく目をみはるばかりの素晴らしい刀工も大勢おられる。刀剣界の未来は明るいと私は思うと同時に、この刀剣文化を後世に伝えることが今の我々の義務であると思っている。わずか百十数年前の新々刀が重要美術品に指定されていた例(清麿)もある、現代刀工の作もこれから百年、二百年を経てこうした文化財になる日も来るであろう。その日のために残していかねばならない伝統なのではないでしょうか?
参考文献(*のついているものは初心者にもお薦め)
日本刀鑑定必携(雄山閣)
刀剣鑑定読本(青雲書院)*
趣味の日本刀(雄山閣)*
日本刀講座全十巻(雄山閣)
日本刀の研究と鑑賞古刀編・新刀編(金園社)*
新・日本名刀100選(秋田書店)*
日本刀銘鑑(雄山閣)
刀匠全集(美術倶楽部)
刀工大鑑(光芸出版)
刀剣見どころ勘どころ(光芸出版)
日本刀辞典(光芸出版)*
備前刀(山陽新聞社)*
日本名刀大図鑑(歴史読本)絶版
日本剣豪読本(歴史読本)絶版